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プレゼンを聞いて、思う [スタンフォード日記]

月曜、火曜と職場の同僚がそれぞれ今やっているプロジェクトから一つを選び、うちのセンターの公開の場で発表をした。

それぞれのプレゼンを聞き終わった後に、何というか途方もない「刺激」を受けた。この「刺激」は久しぶりに受けたこともあるので、なぜそう思ったのか、少し考えてみた。

ふたりのプレゼンはまったく異なったトピックを対象としている。月曜は国際連盟から加盟国が多く出たにもかかわらず、国際連合からはなぜ脱退がないのか。火曜はとくにICT(情報通信技術)を取り入れたサービス産業が製造業に代わり主役となっている21世紀の現状を政治経済学的に捉えた場合の含意について。

まったく異なるにもかかわらず、ふたりのプレゼンには共通点があると気付いた。それは研究の問い、そして引き出される含意などが「開かれている」ということだ。

研究をしていると、本当に自分の抱えているテーマについて分かっている研究者は、それこそ数名しかいない。少し広くとっても数十名だろう。最先端の研究とはそういうものだ。(自然科学分野はそもそも規模が違うので桁は違うだろうが、狭く限られた自分の論文とどんぴしゃにある研究をしている人はそこまで多くないと推察する。)

しかし公開の場で話すとき、そこには直接そのテーマを扱っていないが、似たようなトピックを角度や素材を変えて扱っている研究者や隣接分野の研究者などが集まってくる。また自分より経験の多いベテランもいれば、まだ(いい意味で)たこつぼ化した学問に毒されていない若い院生も来る。

そのような場で話すとき、こちらの優れた講演者は枝葉をできる限り切り落として、主たる問い、仮説、それを立証する道具をさくっと提示する。論理の流れが明確に示される。少し挑戦的(provocative)に、仮説をだしてみることも多い。

こういった工夫によって、聴衆には疑問や刺激が残るのだと思う。

つまりこういうことだ。アジアの研究者にありがちだが、事実関係を積み上げて精緻に内容をくみ上げた、しかし狭い問いや領域にしか対応していないプレゼンには、事実関係を覆す材料でも持ち合わせていない限り、できる質問は、「この研究って何の意味があるの(so what?)」か、「このことも教えてください」か、または中で使われている概念などの定義をつめさせるとか、ありきたりなものに限られてしまう。そしてその分野に精通している数名から細かい質問が飛ぶ。多くの聴衆はお話拝聴、でもいいのだが、テーマが絞り込まれている以上、そのものずばりを研究していないため、はいそうですか、なんか知識が増えたー、に終わってしまう。細かい話が多ければ聞き終わった後に容赦なく疲労感が襲ってくる。言うまでもないが、プロの研究者以外のプレゼンはこの症状をひどく悪化させた場合が多い。

しかし、論理構造や実証過程が明確で、かつ研究の含意を挑発的に示してくるものには、本当にそうか、と食ってかかる意欲が生まれてくる。「反証できるのではないか」、「そこまでこの研究から言うことはできないのではないか」、「こういう見方をすればよりすっきりとすべて美しく説明できるのではないか」などなど。こういった議論には、対象となる狭い分野の研究者である必要もない。似たような分野の研究者はその分野の話を紹介して議論してみようと思うだろうし、ベテランはアドバイスを、若手や院生は柔らかい頭で考えたアイディアを出してくるかも知れない。

そして、このようなプレゼンをする人たちには聴衆は最初から食いついている。お、なんか面白いな、と。聞きながら一生懸命、頭をフル回転させて、自分の研究や様々な知見をひっくり返して考える。

結果として、質疑応答がとても面白い。問いの連鎖が起こる。面白い質問が出ると、講演者も考える。質問者も、ほかの聴衆も考える。そして問いが数珠つなぎのように、絡んで絡んで、広がる広がる。

そして誰しもが分かっている。研究報告は相手を論破するためのものではないと。あくまで報告を評価し、発展させ、また自分の研究にも活かすためだと。

理想的なプレゼンは、しかし恐ろしく準備が必要なものだと思う。タイトルやアウトライン(構造)も練りに練らないと、相手の思考や想像力をかき立てない。同時に、話が狭くなっていくことを避けるため、核心にかかわらない多くの知見を堂々と捨てている(話さない)、それを得るために途方もなく努力してきたとしても。必要があれば質疑応答で話せばいいのだ。(なお、多くの研究者にインパクトのありそうな知見に関しては、少し脱線リスクがあっても選び抜いて話す上級テクニックもある。これは上手い人は上手い。)

一研究者として、そういったことができるようになるか。もうこれは精進しかないと思った。

こんなことは当たり前ではないか、今を何さらと思う研究者の読者もいるだろう。ただ、日本で研究者をしていても、申し訳ないが理想的なプレゼンスタイルは少なかった。事実押しの報告を聞いて、狭い同分野の責任として細かく追求することもあった。なにより、「理想的なプレゼン」が研究報告の目指すべき形との理解も自分のなかで少なくなってきていた。だから自分への戒めとして、この記事を書いた。

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以上のような研究プレゼントはまったく違う形で一般に向けて行った講演に過ぎませんが、昨12月に勤務先アジア研究センターの設立を記念したシンポジウムがあり、記録を出版しました。Session1で私も話しています。
http://asia.kanagawa-u.ac.jp/publication.html

(私の発表の前、金先生の発言に誤植があります。ジェノバ→ジュネーブ)

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