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大学院・研究者を目指す人へ [大学教育について]

長崎大・天野先生の翻訳です。研究者に広く共有されるべき内容です。
大学院、とくに博士課程に入ったあとの心構え。私が博士に入ったとき、刑法を専門とする研究科主任から「耳をふさぐ技術を身につけろ」と言われたことを思い出しました。

本気の論文は1年1−2本でよい、いやいや二流の論文を出すことを恥ずかしがってはいけない、重要性を間違って判断してしまうこともあるのだ、という2人の論争点も面白いですね。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~masaoamano/Masao_Amanos/for_future_graduate_students.html

スターバックス(米国)の従業員への学費支給について [大学教育について]

スターバックスが週20時間以上勤務している店員に、アリゾナ州立大学での学費を支給、条件に合えば全額支払うという月曜日の発表。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/06/17/starbucks-student_n_5505258.html

アメリカ本社の報道は以下。(英語。ビデオ付き)
http://www.starbucks.com/careers/college-plan

しかし日本の報道(ハフポストは朝日の記事)は、なぜこうも企業発表の通りなのか、はなはだ疑問。

この問題の根底にあるのは、1)アメリカの学費の高騰、2)州立大の財政問題。そして、3)制度の適用範囲が狭いことも指摘しなければならない。

1)アメリカの学費高騰は正直、ふざけているほど。スタンフォードは学部生で年間42000ドル、州立大学でも(私の母校)イリノイ大学は非居住者で27000ドル。これに寮費や諸々の出費がかさみ、アメリカの学費ローンの残額は現在、1.2兆ドル。貧富の差が固定化され、アメリカ社会の流動性に深刻な影響を与えるおそれがある。給付の奨学金制度だけでまかなえる問題を越えている。
http://www.forbes.com/sites/specialfeatures/2013/08/07/how-the-college-debt-is-crippling-students-parents-and-the-economy/

2)今回スターバックスはアリゾナ州立大学とのパートナーシップを選択した。この背景には、加州も同様だが、州立大学の困窮がある。教員給料も下がっているところは燦々たる有様と聞く。助教授の給料4万ドル台とか。

3)しかし、一大学の、それもオンラインでの学位取得に限定するということが果たして正しい選択なのか?以下のコラムもその問題を指摘する。(ただし、これまでの店員への給付型学費補助は額が低いので、その廃止と今回の制度導入のバランスを問えるかは微妙。)
http://www.msnbc.com/msnbc/starbucks-offers-employees-free-tuition-arizona-state-university-online

ということで、朝日新聞でも他社でもいいので、この問題を是非深掘りして、アメリカの暗っらいところにも日を当ててください。

学生の理解度をどう深めるか [大学教育について]

友人のFacebookで知った、この論文。大学教育の現場の問題を的確に指摘しています。

筒井美紀「ノートをとる学生は授業を理解しているのか? ―〈大事なところは色を変えて板書してほしい=83%〉を前にして―」『京都女子大学現代社会研究』第9号。

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出典:http://techforeducatorsashley.wikispaces.com/Summarizing+and+Note+Taking

「大事なところの」の見極めを論理内在的に行っていない(7p.)結果、教員に大事なところをはっきり言って欲しい、色を変えて板書をして欲しいと学生は願う。しかし、(受験のような)暗記型の勉強でない以上、多くの大学の講義では全体の論理を理解する必要があるため、ついていけない場合が出てくる。またアンケート調査の分析の結果、読書時間の長い学生は、講義を受けながら疑問点や重要点をまとめる前進的理解を行っている傾向が強い。(以上は私が得た内容で、要約ではありません。)


つなぎ合わせた結論としては、学生には自分のペースでの「読書」を普段から奨励しつつ、講義を受けるときも(あたかも読書をするように)相手の主張を捕まえ、疑問やポイントを「自らの言葉で」まとめるようにノートを取るよう指導する、ということでしょうか。凡庸にみえる結論ですが、多くの真実が詰まっていると経験的に感じます。

読む力をどう育むか。教科書読んで来い、そんなの学生の責任だ、とお叱りを受けそうですが、現場としてはやはり何か工夫がいる気もしています。新聞記事などを時間を与えて読ませて議論という形はすでにやっていますが、(まともなもの限定の)新書マラソンや、以前紹介したビブリオバトルのようなことも考えた方がいいのかも知れません。

読む力と同時に、おそらく書く力(論理構成などを知る)もトレーニングする必要があり、このあたりを特に1年次にしっかりやる必要があるのでしょうね。本務校では書く力について、本年度から少人数の入門演習が全員履修として設けられました。読み書きは両輪の関係にありますので、読む力をしっかりとつけさせたいものです。

講義そのものの改善法は、まだ色々と勉強をして、思案しています。この論文からは、教科書を事前に読ませる(普通読んでこないのでそれには一工夫必要)、講義聴講時に疑問点、重要点に考えをめぐらせるクセをつけるためコメントシートや質問時間などを活用する、この基本的な2点を確認したところです。

ゼミでは、これまでも発表レジメをきる読み方ではなく、もう一歩能動的にしたグループディスカッションや用意した質問に答える形(文章提出を含む)で1学期4冊程度の輪読を進めてきました。全体の論理構造をつかませる訓練のために、帰国後はもう一工夫してみたいところです。

筒井先生にはこのテーマでの一般向け著作もあるようですので、改めて勉強させて頂ければと思います。(なお、ご専門は労働社会学のようです。)

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なお、関連するのですが、まだ自分の中で答えが出ていないことは通常の講義・ゼミなどで提出物への添削は必要か否か。教員の過大負担という点をのぞいても、添削指導は特定の答え、文体、思考の方向性を示しすぎてしまう場合もあるため、私はあまり積極的ではありません(本当に必要だと思ったときにのみ行います)。提出させるまでのプロセスで能動的学習をさせていますし、コメントは口頭で行う方針です。

しかし、学生は添削がお好きなようで、100名以上の大講義でも、毎週コメントシートにすら添削して返却すべきだと主張する学生もいます。これも受け身の学習姿勢の問題と考えるべきか。またこのブログでも考えたいと思います。

東大、2015年度から1時限は105分へ [大学教育について]

 時間割が変わり、これまで駒場キャンパスでは1時限90分、本郷地区キャンパスでは1時限100分が原則だったが、両キャンパスで1時限105分に統一される。2015年度末までに導入予定の4ターム(学期)制は、15年度当初からの導入を基本とする。『東京大学新聞』より

http://www.utnp.org/news/2015105.html

あまり注目されることがなかったが、この変更はなかなか面白い。

日本の大学にいると、90分という時間をどう使うか、これに実に頭を使う。経験すればわかるのだが、人の話を90分聞くのは苦痛以外の何物でもない。教員は90分話すことにいつの間にか慣れてしまうので、メリハリをつけたり工夫して(人によってはだらだらと)乗り切る。そもそも人間は話すことに快感を感じるのだ。

しかし、肝心の学生は、それまで小中高で受けてきた50分の長さと比べて2倍近いこの時間を最初は苦行と感じ、やがて慣れて集中できる学生と、あきらめて時々集中して何とかする学生に二極分化する。(最初から寝るか友だちと話して過ごすという究極のスタイルもなくはない。)

今回の東大の改革案では、105分。記事からはよく分からないが、50+5+50という使い方が想定されているのではないだろうか。50分ふたつの間に5分の休憩が挟まれる。50分に慣れている学生はスムーズに大学教育には入れるだろう。

それ以上に、授業運営ががらっと変わる。50分講義した後に、2セット目で質問を受けることから始める、小テストをして解説をする、視野を広げるビデオをみる、ディスカッションをするなど、色々な展開が考えられる。

講義が50分では短いと感じるかも知れないが、枝葉を切り落とし、それを予習や事前・事後学習教材+小テストで補えば十分可能ではないだろうか。

ゼミであっても、105分を二つに分割して、教員が主体の部分と学生が主体の部分に分割したり、ディスカッションと発表とすることもできる。

もし可能であれば、学期4単位の講義として、週2回一つの単元でこれを繰り返せば相当な学習効果が期待できる。学生はそのような4単位ものを4つ取ることを通常として、5つの履修を例外とすれば、それなりに腰を据えて勉強できるだろう。これはアメリカでの教育形態に少し似ている。そもそも1学期に10近くの講義科目を取らせるような今の日本の仕組みの方が異常だ。何を勉強しているのかよく分からなくなってしまう。(2単位(または1単位)で回すべき授業は例外的に残せばよい。)

またあわせて、卒業単位数を少し減らし、また授業実施週も少し短くした方が日本の大学教育の質を高めることに貢献するだろう。105分化は現状のままの単位計算でも授業実施数を(おそらく)2週間短くすることになり、最終週を試験等に置き換え、12週であればかなり密度の濃い3ヶ月という運用が可能だ。

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趣旨が少し外れるが、90分授業を行っている大学教員にはおなじみの「授業15週化」という大号令は、学生の課外活動にも余裕を失わせるし、教員の研究活動にも支障が多い。大学の先生はこれだから、、というかもしれないが、「夏休み」や「春休み」に死にものぐるいで研究に専念して成果を上げて研究を支えていることを少しは知っていて欲しい。また学生には色々な経験を、海外に、というのはいいが、今の日本の学年暦(カレンダー)ではその時間的余裕がどんどん失われていることを忘れないで欲しい。

(さらにいえば、仕送りも激減している中でその資金を稼ぐためにバイトをしても、昔の大学生よりはるかに賃金の安いバイトしかない。世間の「大人」が思うより状況は厳しく、しかし実は海外に関心のある学生は思われているよりはるかにいるので、必死に時間を作って、外に出て行こうとするし、大学もなけなしの資金から奨学金や留学制度をつくって支援しているのである。)

話を戻す。

90分授業でも似たような運用は可能ではある。45+5+40などの形態で工夫している教員もいるだろう。しかし、やはりちょっと短い。そしてこれでは15週のままで、もう一つの問題をクリアできていない。

ということで、105分化、学期の短縮化、私はとても高く支持している。

ビブリオバトルについて [大学教育について]

ビブリオバトルとは、バトル参加者が他者に読ませたいと思う本を持ち寄り、制限時間(通常5分)のなかでプレゼンテーションを行い、最後に投票にて、その日のチャンプ本(最も読みたくなった本)を全員で選ぶというものだ。

教育現場では小学校段階から導入されている。また図書館や書店、さまざまなコミュニティでも本好きな人々の間で行われている。私も2013年からビブリオバトルを大学教育にて活用している。

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出典 都立図書館 http://www.library.metro.tokyo.jp/Portals/0/reference/pdf/biblio.pdf

期待される教育効果
教育でビブリオバトルを使うことには、本好きな人々(また人前で話すことが得意な人)だけで行うバトルと本質的な違いがある。教室では「強制的にバトルに参加させられる」のだ。本を読むという行為が好きと嫌いとにかかわらず、人前で話すことが得手不得手にかかわらず、教師によって学生(生徒や児童も)は参加することになる。

しかし、参加は強制であったとしても、本を選ぶ行為、それを他者に読ませたいとプレゼン内容を考える行為は主体的なものとなる。人前で話す、そして最後には一人の勝者が生まれるというプレッシャーは、準備段階に刺激をもたらす。本来人間は話すことで快楽を得る(それゆえ他者の話に誠意を持って聞くというより、会話の最中も自分が何と答えるかに集中してしまう)とはいうが、多数の前で話すことに快楽を得ることにはある程度の経験が必要だ。ビブリオバトルを通じて、主体性、人前で話す訓練が期待できる。

また、ビブリオバトルでは一般的に図書の分野やテーマを設定しないが、教育現場ではバトルへの習熟度によると考えている。はじめて参加する学生が多い場合には、その人がこれまでの人生で出会った本のなかから自由に選んでもらう方が良いだろう。自信をもって話せる本を持ってこさせた上で、上手く話せた経験を積んでもらうことが重要だ。他方で、たとえば国際関係を1,2年勉強したゼミ生であれば、国際関係に関係するものと分野を緩く定めた上で、夏休みの間に図書館や書店で色々な本を手に取るように時間を与えた上でバトルをすることは、専門分野の幅広さや、そのなかでの自らの関心に射程を定めさせる上で教育効果が期待される。

学生の戸惑いや失敗、教師の役割
当初導入したときの経験では、色々と驚くことも多かった。たとえば、大学入学直後の一年生はそもそもマンガ以外にろくに本を読み通したことがない学生も少なくない。(なおマンガを否定しているわけではない。むしろマンガの可能性を感じる多くの作品もある。)結果として、本屋で平積みしてある本から深く考えずに1冊買い求めただけで、実際に読んでみてもそれが本当に面白いとは思えていないことが多い。また、本であれば何でも良いということで、「Yokohama Walker」や「るるぶ山梨」を持ってこられたこともあり、反応に困った。本という概念をどう考えるか、それは確かに人によるだろう。しかし、情報が羅列してあるだけの雑誌は、その情報が必要な人に意味があっても、それ以上ではない。本の選択に当たっては、教師がある程度説明しておく必要があるだろう。

また、ビブリオバトルでは制限時間は厳密に運用することになっている。5分が推奨されているが、初期の段階では3分など短くすることもできる。ただし、その長さにかかわらず、制限時間を途中で終えることは許されず、他方で延長することも一切許されない。

これは話すことの経験が少ない多くの学生にとって、しばしば厳しい条件のようだ。5分話すはずが3分で終わってしまい途方に暮れる学生、余った1分で本の価格や出版社をただ棒読みする学生、いきなりまったく本と関係のないエピソードを話し始める学生など、色々な反応を見せる。留学生ゼミで行ったとき、制限時間は4分としたが、それでも時間を終えることのできない学生がおり、開いたページを棒読みする学生などもいた。しかし、ルールはあくまでも厳格に運用すべきだ。ルールにあるように、事前原稿やメモを読み上げることも許してはならない。時間に足りないのは本人の練習不足、読み込み不足。それを伝えておくことも教師の役割だろう。

楽しい雰囲気が何より重要
教室で行う以上、厳しさをもって運営すべきだが、同時にビブリオバトルを通じて本を読む喜び、それを人と共有する楽しさをしってもらうことを忘れてはいけない。ビブリオバトルが優れていることは、プレゼンのあいだは大きな時計で発表者を焦らせる、プレゼンの後に簡単に質疑を行う、最後に投票を行うなどゲーム的な要素を取り入れていることにある。緊張するけれども楽しい、そうなることが理想だ。

投票を行うと、たしかに一票も集まらない本が多数出てくる。学生だけでやっていると、実はすばらしい本でも専門的すぎて票が集まらない場合も多い。こういった場合には、教師から、投票はあくまで読みたくなった本についてであり、勝てなかったとしても本そのものより発表者の話す技術も大きく関係することを伝え、また低い人気になった本の良さを補足的に説明することも求められる。(なおタイムキーパーや質疑、投票のために司会役が必要だが、教師はあくまで後ろにいる方がよい。)

ビブリオバトルを様々な学生の組み合わせの演習でおこなっていると、色々と面白い本に出会うこともある。また、1995年生まれの学生が『僕らの七日間戦争』を図書館で発見し、あの本の意味するもの(学生運動)を説明したときには正直に驚いた。発表者の宗教観や大学進学の理由などを本の紹介を通じて知るときもあった。

少人数教育の演習では、学期に1回程度経験させると良いと思う。合宿などで集中的に行うことも一案だ。(なお各回のバトルでの報告者は(集中力を維持させるため)最大でも10名以内に留めることがよい。)

【大学教育について】カテゴリーを設けます [大学教育について]

スタンフォード滞在日記に加え、今後は【大学教育について】も少しずつ書いていきたいと思います。

早いものでフルタイムの特任助教にしてもらい教員デビュー(?)してから、8年目に入りました。とくに現在の大学に着任してから在外研修に出るまでの4年間、毎週5,6コマの講義とゼミをもち、また非常勤として日本語、英語で国内外の多くの大学で教えさせて頂きました

これらの経験のなかで、ただ一方的に講義するだけではなく、色々な教育技術を磨いてきたと思っています。簡単な記載はHPにもしてありますが、少しエピソードを加えながら、紹介していきたいと思います。失敗談も色々とあります。

帰国後もあと34年(70定年のため、よく考えると途方もない期間です)は教壇に立つので、教師としてどのように授業をしていくか、自分で考えておくためにもブログをつらつらと書こうと思います。

なお、MK省に言いたいことはやまのようにありますし、大学経営や大学のあり方についても色々思うところはありますが、このカテゴリーの記事は国際政治を中心にした大学教育の現場の話に限定したいと思います。

特に同業の皆さんのコメントをお待ちしています。Facebookかメールでお願いします。
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